斉藤茂吉とうなぎの蒲焼

 斉藤茂吉と言えば近代日本の代表的歌人ですが、うなぎの蒲焼が大好物と言うより 「嗜好の範疇をとうに超えた信仰ともいえる執着ぶり」であったとのことです。

 どのように“うなぎ好き”であったかを『里見真三著「賢者の食欲」 ( 文芸春秋社、平成12年1月第1刷 ) 』から引用 (「 」内 ) してお伝えしましょう。

 さて、このような茂吉はさぞかし沢山のウナギを食べたと思われますが、それでは生涯に何尾食べたでしょうか。

 「この疑問は茂吉愛好者なら誰でも一度は抱くはず」だそうで、彼がうなぎの蒲焼を食べた回数を『茂吉日記』( 岩波書店の『斎藤茂吉全集』全36巻中の4巻で合計2,987ページ、重量3.25Kgあるとのこと )から数えあげた本さえあるとのことです。林谷廣『茂吉とウナギ』、短歌新聞社、昭56 ) 。そのものズバリの本ですネ。

 それによると総数902回もあるそうです ( 里見さんの計算では876回とか ) 。日記には空白の日もあり、「その間だって必ずウナギを食べたはずだから記録外を2割と推定して」補正すると1,051尾余となるとか ( 以上は里見さんの計算。林谷さんは記帳洩れを1割と仮定、合計約1,000尾としているそうです ) 。

 さらに、里見さんも仲々しつこいのですが、茂吉が「鰻好きになったのは44歳」で「68歳になると、さほど関心を示さなくなる ( 晩年の3年間には僅か13尾だ ) 」ので、1,000尾を24年間で食べた勘定になり、毎日1回食べたとすると、2年と320日かかり、24年間の平均では1年に1ヵ月半ずつ食べていたことになると言う計算をしています。

 そして、茂吉は「蒲焼には神秘的な力が宿っているとすら、信じ始め」ます。日記には以下の記述があるそうです。

 里見さんは言っています「彼にとって、鰻は覚醒剤であり興奮剤であり下痢止めでもあった。茂吉は本当に青山脳病院の院長だったのか?」。
 里見さんはさらに言います「鰻の蒲焼なかりせば、( 評論 ) 柿本人麿』や『万葉秀歌』はもちろん、( 歌集 )『白桃』も『暁紅』も『寒雲』も『のぼり路』も生まれなかった。そうなると、文化勲章を受賞する機会は巡って来なかったかも知れない」。


 ウナギさまさまですネ。ウナギを食べて文化勲章をもらおう ! ウナギを供試している研究者の皆さん、今からでも遅くはない。実験で使ったウナギは捨てないで食べようではありませんか ( ヨーロッパウナギならノーベル賞かも知れないゾ ) !!


 茂吉は「ウナギなら天然でも養殖でも何でも食べた」そうで、『養殖が発達し、莫大量の養殖鰻が東京にも入りこむ ( 略 ) そういふ有り難い世代に自分も生活した』と書いているとのことです。

 ところで、先の大戦時代には養鰻業はほとんど休業していました。うなぎ好きの茂吉はさぞや困ったことでしょう。

 先ず、昭和16年12月8日、開戦 ( 翌 ) 日の日記です。『・昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英二国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生 ( と言っても59歳でした ) ノ紅血躍動!( 略 ) ・神田一橋図書館、鰻、 ・午後四時十五分明治神宮参拝ス、東条首相、海軍大臣ニ会フ ・道玄坂 ( にある鰻屋で ) 鰻、 ・皇軍大捷、ハワイ攻撃!! 戦ハ日曜ナリ ・宣戦大詔煥発』と茂吉は書いています。

 彼は開戦の日から大晦日までの24日間で合計14尾のウナギを食べています。

 ここまではいいのですが、その後に食料難の戦中戦後の時代がやって来ます。茂吉はその間ウナギに関してどう過ごしたのでしょうか?

 茂吉は、「俗人には想像もつかぬ、「あッ!」と驚く “天啓の奇手“」、「即ち、ほとんどの人間がその存在さえ知らぬ、鰻の缶詰」を「開戦一年前の春、銀座のデパートで買い込み、押し入れへ大切に仕舞いこ」んでいたのです。

 「この缶詰が、戦中戦後の飢餓時代、巨星の心の支えとなった」と里見さんは言います。

 食料難が深刻化した昭和17年、夏に「二回、缶詰を開け、そして、『鑵詰△』とぶっきらぼうに ( 日記に ) 記」しました。

 「翌十八年、戦局ますます不利。鰻屋で本物の蒲焼が食べられなくなって久しい(略 )夏」の日記に書いています。

 『午食ニ数年前買ッテオイタ鰻ノ鑵詰ヲ一ツ開イテ、二度ニ食ッタ、ソノオカゲカ少シク勉強シタ、ひげナド剃ッタリ、手紙ハガキハジメテ書イタ、・夕食后モ、言葉ノコト少シカイタ』と。まさにウナギの効果満点です。

 「翌十九年夏」『夕食ニシマッテオイタウナギノ鑵詰ヲ食ッタガ非常ニ楽シカッタ。夕食後モ九時マデ筆記シタ』

 「二十年春 ( 故郷の ) 山形・金瓶へ秘蔵の缶詰を携えて単身疎開した彼はこんな歌を詠む

 
 最上川に住みしウナギもくはむとぞわれかすかにも生きてながらふ


 極く稀れではあったけれど、生まれ故郷では天然の大鰻だって食えるのだ。大切な缶詰を他人に分け与える度量だって生ずる。

 『 ( 弟子の ) 結城哀果君来タリ、イロイロ溜ッテイタ話ヲシ、( 略 ) 午食ヲ共ニシタ、お直 ( 茂吉の妹 ) ガ鰻ノ鑵詰ヲ馳走シ』た。

 「缶詰が日記に再登場したのは ( 略 ) ( 昭和 ) 二十四年のことである ) 」。

 茂吉は67歳で、食欲はなくなり、「鰻より淡白な刺し身を好むようになってしまったが、夏が来ると思い出すのは、戦中戦後の苦労を共にした缶詰だ。」

「そして詠む。  

十余年たちし鰻の鑵詰ををしみをしみてここに残れる

翌二十五年夏。こう歌う。

戦中の鰻のかんづめ残れるがさびて居りけり見つつ悲しき

 その好きだった鰻の歌は意外にもたった三十二首しかないとのことです。「歌に詠めないくらい好きなものがあったとは、思えば、妬ましいほど幸せな人生ではないか」と里見さんは書いています。

 さて、この茂吉の食べた鰻の缶詰は静岡県はJR舞阪駅のそばに今もある[浜名湖食品]製のものでした。昭和9年から製造、販売しています ( さすがは「日本一の浜名湖うなぎ」!これはその隣にある浜名湖養魚漁協が以前、事務所屋上に掲げていたネオンサインの文句、降ろして久しい ) 。
 
 それはさておき、茂吉のうなぎの食べ方の一つ、日記にも『今日ハツカレテ朝ヨリ臥床ナドセリ。夕食ニうなぎナドヲ取リ牛乳ヲカケテ食ス』を里見さんはやって見て、「“茂吉茶漬け”と名づけ」、それについて以下のように記しています。

 「炊きたての熱い飯を茶碗に盛って、温めた缶詰の蒲焼一片と紅生姜少々を載せて、(略) 熱した牛乳をたっぷりと注いでサラサラと掻き込んだ。 と、その瞬間、爽やかな風味が私の味蕾を支配した。牛乳が内包する甘味成分が鰻を触媒にして突如立ち上がり、甘辛のタレと絶妙なハーモニーを奏で始めたのである。鰻は粒状と化し、その滋味を飯の一粒一粒に満遍なく供給している。ピクルスに似た紅生姜の刺激も、絶好の箸休めだ」

 食の研究家、B級グルメの提唱者、里見真三の面目躍如ではありませんか! どうです。あなたも試してみませんか。

「たかがうなぎの蒲焼、されどうなぎの蒲焼」。 陳腐ですが人生の哀歓が身に沁みる思いがします。

(文責 岡 英夫)